2015年11月7日土曜日

農業の歴史 縄文時代~大和時代


日本の農業の歴史にはかなり特徴的な部分があります。


露地での農業について語るときは、常にその土壌の由来について考えなければなりませんが、
そういった点に関しては、まだ農業の現場ではメジャーな情報にはなっていません。


日本列島は、世界でもまれにみる複雑な土壌がまじりあった地形をしています。

火山灰土が積もった黒ボク土、そして粘土質以外にも、砂質、沖積土など、
様々なパターンの土壌があります。


こうした土壌は、それまでの長い年月をかけた歴史が積み重なってできていますが、
それぞれの土壌においてその特徴は異なります。

日本の環境では、温暖多湿という特徴があるため、雨がよく降ります。
この雨が降るというのが曲者で、この降雨によって土壌中のCa(カルシウム)を代表とする成分が雨水と一緒に溶脱して流れて行ってしまうのです。

雨が少ない欧米とは違い、この点が日本の土壌の代表的な特徴だと言えます。
なので、新たに外部から投入しなければ、失われた養分を補充することができません。

苦土石灰や堆肥などを入れることが、土壌改良という作業に当たります。

つまり日本の土壌は、何もないむき出しの状態で、通常では養分が足りない土なのです。





縄文時代の日本


このころの人々はまだ農業や牧畜を知らなかったので、
獣や魚・貝・木の実などを獲って暮らしていました。

熊や猪、鹿などの大きな獲物を取るときは大勢で出かけていたといいます。




弥生時代の日本


弥生時代の遺跡を見ると、青森県でも稲作りが行われていたという事がわかります。

米は大体中国南部から東南アジア、インドにかけての地域のどこかが原産地だといわれています。


本来温かい地域で育つ米を、青森という寒い地域で育てることができていたという事に、
当時の技術力の高さを感じます。


日本へ伝えられた米作りですが、作るには難しい技術や知識が必要です。
ただ稲が伝わってもすぐ、日本で上手く作られたとは思えません。
おそらく稲と共にかなりの人が日本に来て、その作り方を広めたと考えられます。


稲を作るには、種蒔きから取り入れまで同じ1つの土地を使います。

そのため、鳥や獣・魚などを獲って暮らしていたころのように、
獲物を追って住まいを移す必要はなくなり、1つの土地に長く住みつくようになりました。

また、稲を作るのは手数がかかるので、これまでよりも一層、
力を合わせて仕事をすることが必要になりました。

こうして人々は村を作り共同生活をするようになってきたのです。


米は蓄えることができたので、食べ物の心配はこれまでよりも
ずっと少なくなり、人々の生活にゆとりができました。

またコメの取れ高が多くなると、皆々がコメ作りに従う必要がなくなってきたので、
土器づくりを専門にする人、農具づくりを専門にする人などが現れてきました。

そのため、よい道具ができるようになり、コメの取れ高は一層増えて、
人々の生活はますます豊かになっていきました。




大和時代の日本


大和の社会では支配するものと支配されるものとの違いがはっきりしていました。

普通の農民たちは、天皇や豪族たちにしたがってその下で働いており、
政治に口を出すことなどはとてもできませんでした。

豪族や皇室はたくさんの田畑を持っていました。

その中で皇室が持っていた田畑を屯倉(みやけ)といいます。

皇室の田畑なので、作物の良くできる豊かな土地に置かれ、朝廷が地方を治めるための
よりどころにもなりました。

大和の国の勢いが盛んになってくると屯倉も各地にたくさん置かれるようになり、関東地方から九州地方にまでも広がりました。

屯倉が広がるにつれて、地方を治めるための政治の仕組みも次第に整えられていき、
大和の国は地方の小さな国々を次々に従えて大きな国になったものです。





村人たちが協力し合って生活していた時代から、支配するものとされるものに分かれる
階級制の時代へと変わってきました。

その中でも「食」という部分が重要な位置を占めていたことには変わりありません。


如何に多くの食物を生産し、確保できるか、それはいつの時代においても
大切なこととされていたでしょう。


今回は、縄文時代から大和時代の農業について紹介してきました。


次回は飛鳥時代からの農業について紹介していきたいと思います。


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