2015年11月16日月曜日

農業の歴史 飛鳥時代~江戸時代


前回は縄文時代から大和時代までの農業の歴史について触れてきました。


如何に多くの食料を手にするかというのはどの時代においても、
非常に重要なものとされていたことがわかっています。

ここでは飛鳥時代以降についてみていきたいと思います。


飛鳥時代の日本





飛鳥時代の日本は律令による政治が行われていました。

地方は、近江とか出雲のような国に分けられ、国の中には郡、郡の中には里が置かれました。

国々には、国衙(こくが)という役所がおかれ、国衙のあるところを国府と呼びました。

人々は、すべて良民と賤民に分けられていました。
良民というのは普通の農民以上のもの全部の事で、全人口の約90%は良民だったと考えられています。
残りの10%ばかりが賤民になります。
賤民は、身分が低く一人前の人間として扱ってもらえない哀れな人々でした。
そして、良民と賤民の結婚は、認められませんでした。

また、良民と賤民の間に当たるものとして、品部(ともべ)・雑戸(ぞうこ)などがありました。

このように、律令の仕組みの中では、身分によって法律上の取り扱いが全く不公平で、
そこが今日と大きく違うところです。

農業においては全国の土地がすべて国のものとされていました。

6歳以上の農民に土地を与え耕させていました。

そのため6年に一度戸籍を作り直し、男には二段(約15アール)、女にはその三分の二の口分田という田を与えました。

この土地は人毎に与えられているものであり、その人が亡くなると土地は国に返還されます。

この仕組みを班田収授法と呼びます。




奈良時代の日本


「奈良時代」の画像検索結果

飛鳥時代に、大化の改新で決められた班田収授法によって、田は人民に平等に分けられました。
しかし、貴族や大きな寺や神社には、普通の人よりも、はるかに多くの田が与えられました。

また、祖・庸・調などで集まった税の中から、多くのコメや布が、貴族や寺に与えられたりで、
貴族たちの生活は次第に派手になりました。

朝廷は、都を作ったり大きな寺を建てたり、東北地方の蝦夷や、南九州のハヤトを征伐したりしたため、多くの費用がいるようになってきました。

政府は税をもっと多くとるようにしなければならないと考えましたが、人口が増えて口分田が足りなくなりました。


三世一身の法を制定し、新しく溝を掘り水を引いた場合は孫の代まで土地の使用を認め、荒れている池や用水路を直したものは、その一代だけ土地の使用を認めることにしましたが、田の開墾には多くの費用と人手がいるうえ苦労して開墾しても法解の決まりで朝廷に取り上げられてしまうため、田をなかなか開墾しようとしませんでした。


その後朝廷は、自分の開墾した田は、いつまでも自分のものにしてよいという墾田永年私財法を制定します。



開墾は非常に盛んになりましたが、開墾できる人は開墾に必要な費用、人手などをたくさん持っている貴族や大きな寺などに限られました。

また、地方でも有力な豪族の中には、どんどん田を開いて自分のものとし、一層、富み栄える人が増えてきました。


こうして、貴族や大きな寺は、財力に任せて開墾し、どんどん私有地を広げていきました。

これらの私有地が荘園の起こりです。
大きな寺の中には、何千町歩もの荘園をもつものもあらわれました。

普通の農民たちは、豪族や寺や神社の田を借りて耕し、暮らしの足しにしなければなりませんでした。



平安時代の日本




奈良時代の中ごろに墾田永年私財法が制定され、田畑をを子孫に伝えることを認めたので、土地の開墾は非常に盛んになりました。

しかし、荒地や原野を開いて田畑にするには、たくさんの人手や道具など、多くの費用がいるため、広い土地を開くことができたのは、多くの財産を持っている貴族や寺に限られていました。

こうして貴族や寺の田はどんどん増えていきました。
政治の立て直しに努力した桓武天皇も貴族や寺がたくさんの土地を独り占めすることを止めることはできませんでした、
その上、班田収授法も次第に行われなくなり、口分田がそのまま国に帰らず、農民のものになることもありました。

貴族や大きな寺は、新しい土地を開墾するばかりでなく、貧しい農民から区分田を買い上げたりしてますます、自分の土地を広げていきました。

こうして、貴族や寺の土地は遠い地方にまで広がりました。
これらの遠い地方の土地には、そこに事務所や倉を置きました。
そして、農具を置いたり、土地を開くための事務をしたり、採れた稲などの保管をしたりしました。

こうした事務所や倉を荘と呼びましたが、この名がいつの間にか土地そのものの呼び名となり、
のちに荘園と呼ばれるようになったのです。

広い土地を開いたのは、都の貴族や寺ばかりではありません。
地方にも、古くからの勢いの強い人々がいて、広い土地を開いたり、貧しい農民から土地を買い集めて多くの土地を自分のものにしたのです。

荘園に土地を売った農民たちは、小作人となり、そこで働きました。

新しく開いた土地にも租税はかかります。
しかし、それでは自分の収入がそれだけ減ってしまいます。

朝廷に租税がかからないように交渉すると、朝廷としても国の収入が減るので困ります。

それでも寺や神社の土地は、神や仏が怖かったのか簡単に租税を免除しました。

それに習って貴族たちも自身の勢いに任せて、租税を納めないようになりました。
租税を取り立てる地方の役人も、貴族に逆らうと役人を辞めさせられる心配があるので、法律に背いているとはしりながら、租税の取り立てをしませんでした。

これを見て、土地を持っている地方の人も、租税を逃れるため勢いの強い貴族や寺へ自分の土地を寄付するようになりました。

貴族や寺は、たくさんの荘園を、全部自分で世話したわけではありません。
土地を寄付してくれた人を荘官という役に付け、年貢の取り立てや、土地の管理をさせ自分は年々決まった額の米を受け取るだけでした。

また、自分の家に出入りしている身分の低い貴族を、預所という役に付け、荘園の世話を一切任せたりすることもありました。

こうして荘園を持つことができない貴族も預所となって、荘園からの収入の分け前にあずかることができました。



鎌倉時代の日本




鎌倉時代の民衆と言えば、ほとんどが荘園の中に住む農民でした。
荘園の中で、地頭やその他の武士は、多くの農民を支配し、年貢を取り立てたり、いろいろな雑用をやらせたりしていました。

荘園の農民のうち自分の土地を持つ地主を名主と呼びました。
彼らは農民ではありますが、戦の時は武器を取ってこれらの武士に従いました。

名主たちは自分で持っている田の一部は、自分で耕しましたが、残りは小作地として他の農民たちに耕させ、それから地代を取り立てました。

農民たちは取れた米の3割から4割を年貢として荘園の支配者である武士に差し出しました。
多いときには五割または、それ以上の年貢を出しました。
年貢の他に武士の屋敷を作ったり、橋を掛けたり、荷物を運んだりとただ働きの仕事もしなければなりませんでした。

税として、コメの他にも、畑からは麦・粟・大豆などを産物として、漆・カキ・炭・薪・織物などを収めました。

重い年貢や、数々の労働は、みな小作人たちにかかってきました。

このような農民の暮らしは、大変苦しくその住まいは、多くが一間きりの土間であったようで、そこにむしろでもひいて暮らしていたものと思われます。

所従や下人に生活はもっとひどく、住まいは掘立小屋程度で、苧(からむし)と呼ぶ麻の着物を着て米ではなく、麦や雑穀を食べていました。

農業技術は、平安時代の終わりころから非常に進んできました。
田や畑を耕作するのに、牛や馬などの家畜を使ったり、鍬やすきを使ったりすることは、ずっと前から行われていましたが鎌倉時代には、農具がだんだん鋭いものになってきました。


また、今まで貴族・大社寺や豪族が、ほとんど独り占めにしていた農具や牛馬が次第に豊かな農民たちにまでいきわたるようになってきました。

二毛作が行われるようになったことは、日本の農業史の上で大きな出来事ですが、これは鎌倉時代に始まったといわれています。

まだ、耕されていない土地もたくさんありましたが、農業技術が進むにつれて、開墾も次第に行われてきました。

関東平野も、幕府の指図でその多くが開墾され田畑が増えました。

平安時代には、所によっては直播き(種もみを耕した田に直接まく)も行われましたが、鎌倉時代にはほとんど苗代が作られました。

苗代に種もみも蒔く前に、ある時間水につけておいて発芽させる方法も、平安時代に引き続いて
広く行われるようになりました。

農民にとって、田に水を絶やさないことも大きな心配でした。
9世紀の半ばころから水車の使用が盛んになり、鎌倉時代になると水車をつくる技術はかなり高いものになりました。

米では「うるち」と「もち」の区別、「わせ」と「おくて」の区別は平安時代からありましたが、鎌倉時代には「なかて」が広く作られるようになりました。



室町時代の日本


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鎌倉時代から室町時代にかけて、農民たちは荘園の領主から重い年貢やきつい仕事を請け負わされたので生活もかなり苦しかったようです。

しかし、それにも関わらず農民たちは限られた土地から、多くの収穫を上げようとして技術を高める努力をしました。

その結果、農業は大変進歩し生産高が増えてきました。

これと共に地方の国々でも様々な産業が発達してきました。

草削り、つるはし、熊手、苗かご、もっこ、とおしなど、農民たちはまず農具を改良しました。

灌漑設備として水車も作りました。
15世紀のはじめに日本へ来た朝鮮の使いは、日本の水車の便利さに驚いていたとされています。


肥料としては、人糞、家畜の糞、草・魚・海藻・灰などが使われていました。



大部分が水田になっていた土地利用ですが、稲も品質が改良され、わせ・なかて・おくては土地に合わせてうまく栽培されてきました。

土地の利用の仕方も進み、コメと麦、麦と蕎麦などのような組み合わせで二毛作が広まってきました。

畑には主に麦・大豆・小豆を作り、その他雑穀・野菜・ナタネ・ゴマ・茶なども作りました。

ことに、都の付近では、売ればすぐにお金になったため、瓜・大根・ナスのような野菜が良く作られました。


同じように綿・麻・漆などの手工業の原料もよく栽培されました。
綿は木綿に、漆は塗りものになったからです。
その他、桑の穂も、紙を作ったり蚕を飼うのに役に立つので栽培されました。

果物では甲州(山梨県)のブドウ、紀州(和歌山県・三重県の一部)のミカンなどが出始めています。

また、茶を飲む習わしが広まるにつれて茶の栽培も盛んになってきました。

このように室町時代は作物の幅が広がった時代でもありました。




安土・桃山時代


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封建制度の世の中で、一番大切な産業は農業です。
武士は農民が納める年貢米をお金に変えて暮らしを立てているので、封建制度をしっかりと作り上げるにはなるべくたくさんの年貢米を取り立てられるようにしなければなりません。
このために太閤検地という土地調べが行われました。

検地では、田畑の広さやそこから米がどれだけとれるか、また土地を持っている農民は誰かを、詳しく調べて帳面に書き付けます。これを検地帳といいました。
そしてこの帳面を元にして農民に年貢米や、両主のための力仕事なとが割り当てられました。

この太閤検地にはメリットとデメリットがありました。

メリットとしては、その土地を耕している人がその土地の持ち主として認められることになったので、地主の土地を耕していた貧しい百姓たちも、自分の土地を持つことができました。

デメリットとしては、農民の納める年貢が取れ高の半分からそれ以上という高い割合になり、年貢が納められないと隣近所や村の人たち全体の連帯責任とされました。


これまで、身分のあまり高くない武士は、戦いのときの他は農村に住んで農業をしていました。
しかし、秀吉の行った検知や刀狩によってたとえ身分は低くても、武士は戦争だけをする、農民は農業にだけ精を出して年貢を納めるというふうに、身分がはっきり分かれるようになりました。

そして武士はすべて城下町に住むようになり、農民が勝手に土地を離れることを厳しく取り締まりました。



江戸時代の日本


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江戸時代の村は、大体今の村の大字にあたり戸数も30戸か40戸くらいでした。
幕府も藩も、秀吉の時より一層厳しく検地をおこない、村の収穫高を決めて年貢を取るようにしましたので、村が政治を行うときの一番小さな単位になっていました。

村に住む農民にもいろいろな身分がありました。
年貢を納める責任を持つ農民を本百姓といい、農民の内では一番上の身分でした。

本百姓には、地主もおれば小さな自作農もいました。

本百姓の下には、名子・被官などという身分の低い農民がいて、地主から家来のように扱われていました。

また、時代が下るにつれて、水呑百姓も増えていきました。
水呑百姓というのは食べるものがなくて水だけしか飲めないような百姓ということです。

水呑百姓は一番下の貧しい農民だったので、自分の耕す土地ももてず、小作や日雇いで暮らしていました。

しかし、江戸時代も中ごろになると下っ端の農民の地位もだいぶ上がってきました。
それまで、地主の下で苦しんでいた貧しい農民たちが、だんだん一人前の農民になってきました。
土地を開いたりいろいろな副業をしたりして暮らしも楽になってきました。


幕府も大名も農民を治めることに一番力を入れていました。
村を治める役人には郡代や代官がいましたが農民の中からも村役人が出て村を治めていました。

村役人には、今の村長にあたる庄屋や、組頭・百姓代もいました。
庄屋は、村の年貢を集めたり村の中や、他の村との問題などにはいつも村の代表となりました。
主に地主や古い家柄の人が領主から言いつけられて庄屋になりました。

江戸時代も後になると村中の農民選挙で、決まるところも出てきました。
幕府や大名は、年貢をきちんととったり犯罪を防ぐために、全国の街や村に五人組を作らせました。
大体、5件の家を一組にしてお互いに力を合わせたり、見張りをさせたりしました。
もし1件の家で、年貢を納めないと残りの4件が代わって納めさせられ、また悪いことをした家があると5件の共同の責任とされました。


家康は「村々の百姓どもが、死なないようにまた生きないように考えて年貢を取り立てるように」といいました。
農民たちに、やっと耕作ができるだけの暮らしをさせて、できるだけ、たくさんの年貢を取り立てるように心がけろ、といったのです。

年貢は、主に米で納める税で五公五民(とれた米のうち半分を年貢に納め半分を自分のものにすること)または、四公六民が普通でした。
しかし、中には八公二民という藩さえありました。

その上、よい米だけを納めさせたのです。
この他、山・野原・海・川などでとれたものにもいろいろな税がかかりました。
農民が副業で作った品物にもかかりました。

農民たちは年貢の他、いろいろな仕事を言いつけられました。
道路や川の堤を直したり領主のための人足に出されたりしました。
これらの仕事は、だんだんお金を代わりに納めるようになりましたが助郷だけは、そうはいきませんでした。
助郷とは、幕府や大名の荷物を運ぶために、街道の宿場では人足や馬をいつも備えておくのですが、だんだん荷物が増えてくるととても運びきれなかったので、近くの村から助けの人足や馬を出させたことをいいます。
しかし、この助郷は賃銭が安いうえに忙しいときでも、構わず呼び出されたので農民は非常に苦しみました。

幕府や大名は、農民から年貢をきちんと取り立てるためにいろいろな方法をとりました。
年貢を納める農民が耕地を離れて、隣の村にいったりしては困るので、これを禁止しました。
耕地の少ない農家が分家して土地をわけると、本家も分家も共倒れになるので、一町(約1ヘクタール)以下の農家が分家することを禁止しました。

「百姓は、麦・粟・ひえ・菜・大根などを作って食べ、米はできるだけ食べさせないようにせよ」
ということは米は年貢に取り立てるものであるから、百姓に節約させ、食べさせないようにするためです。
これらは慶安のお触書として、人々に知らされていました。


江戸時代の農民たちは、暮らしに必要なものはたいてい自分で作っていました。
そのために、水田をつくるための用水や薪をとったり、草を刈ったりする山林や野原などは、村中やいくつかの村で共同で利用していました。このような山林や野原を入会地といいます。

江戸時代の農民たちはそれぞれの耕地が狭いうえに、年貢が重いので収穫を多くするために、これまでよりもさらに激しい労働を繰り返さなければなりませんでした。
だから村の人たちは同士でも助け合わなければなりませんでした。
近い者同士が助け合う仕組みを「ゆい」といいます。
田植えや取り入れの時などに、ゆいの仲間が一軒一軒手伝うのです。

また、苦しい家計を助けあうためにお金を積み立てて使う講や無尽がたくさん作られました。
江戸時代も後になると農村にも、だんだんお金がいきわたるようになりましたが、初めころは、お金でものを買う事はありませんでした。

鉄で作った農具や塩・薬などどうしても自分で作れないようなもののほかは、町の人のようにお金を出して好きなものを手に入れることもなかなかできなかったのです。

年貢の割り当てや村の費用を決めるときなど、大事なことは寄合を開いて話し合いました。
しかし、その場合でも座る順序が決まっており、村役人や地主は一番上座に座り、その意見が大きな力を持っていました。

村の申し合わせに背いた村人は村から追い出されたり、村八分にされて村人から付き合いを断られたりしました。
村八分にされると、手伝いがないので葬式も出せなかったのです。
とにかく、村では農民が自分の家だけでは暮らしていけないようにできていたことがわかります。


このように、農民たちの暮らしは大変苦しく、また同じ仕事を繰り返しているので、毎日退屈でした。だから楽しいことがあれば思い切り楽しもうとしました。
村の楽しみで一番大きいのはやはり鎮守様の春秋2回のお祭りでした。


工業などは産物に比べてそれほど盛んではなかったので、農産物が産物の大部分を占めていました。そこで、将軍や大名たちも新しい田畑を開いて産物を多くしようとしました。
そして新しい田畑には3年間は税を掛けないとか税を軽くするなどして開墾を奨励していました。
また用水路を掘って多くの田に水がいきわたるようにしました。


田畑が増えて、多くの作物がとれるようになったほか、この時代には、新しい肥料が使われるようになりました。
江戸時代の初めころは灰や下肥えを使ったり草を漉き込んだりしていました。
やがて、鰯を干した干鰯や菜種から油を搾り取った後の油粕などを肥料として使うようになりました。
そのため同じ田畑から今までよりずっと多く取れるようになりました。
肥料が良く効いていると台風や寒さにも耐える力がありますから風害や例外も少なくすることができました。

このころ、イナゴなどの害虫の被害もたびたびありました。
その後、鯨の油を田に蒔いてイナゴの幼虫を殺すことが考え出されたので、虫害で死人が出るようなことはなくなりました。


江戸時代には新しい農具もたくさん作られていました。農具が便利になると仕事もはかどります。
稲を刈り取った後もみを取り、そのもみの殻を取ったのが玄米で、それをついて白米にします。

稲からもみを取るのが大変な仕事で江戸時代の初期まで「こきはし」という脱穀用具が使われていました。

長さ10.5尺~2尺の竹の棒二本を左手で垂直に立て、右手に持った稲の穂を二本の竹の間に挟んでこき下ろすものです。

17世紀の末、元禄の頃に「千歯こき」という道具が発明されてからこきはしは衰えました。
千歯こきが使われるようになって脱穀はずっとはかどりました。
千歯こきは、はじめ竹歯のものでしたが、後に鉄歯に変わり歯並びが前方に倒されるなどの改良が加えられ、大正のころ、足踏み式脱穀機ができるまで広く使われました。

もみをついたり、精米したりするにも、水車が用いられるようになりあちこちに水車小屋が見られるようになりました。


また、江戸時代には、新しい作物が多く作られるようになりました。

綿が広く作られ多くの人々が木綿の着物を着ました。
また色々な作物が外国から伝わり栽培されました。

かぼちゃはカンボジアから、ジャガタライモ(バレイショ)は、ジャカルタから伝えられたもので、間もなく全国で作られるようになりました。

さつまいもは、北九州で琉球いもといい薩摩では唐イモといいますが、これも琉球から伝わってきたものです。
さつまいもは、青木昆陽の力で栽培がすすめられやせ地でもできるし、日照りで米が取れない年などには大変助かりました。


江戸時代以前も、蚕を飼って糸を取り、絹を織ることは行われていましたが、まだそれほど盛んではなく、中国から生糸や絹織物を輸入していました。
江戸時代になると養蚕は非常に盛んになり、全国に広がっていきました。
慶長のこと養蚕・絹織物は東北地方を除いた22か国で行われていたのが200年後の19世紀の初めには東北地方を含む41か国に広がりました。

特に養蚕の盛んなのは信濃・上野・陸奥の南の地方でした。


江戸時代は農業に様々な技術や開発が加えられていた時代であったと言えるでしょう。






飛鳥時代から江戸時代までの流れを見てきましたが、朝廷や国の定めによって、自分の土地を持てなかった時代から、自分の土地を持てるようになった時代への変化が感じられます。

その他様々な技術の開発、新しい作物の栽培などが積極的に行われていたことが見て取れます。


室町時代に日本に来た朝鮮人が水車の技術に驚いたとされていますが、もともと東南アジアや中国など、大陸から伝わった稲と技術を日本人なりに工夫を重ねて自分たちの風土に合った作物づくりを行っていたことは注目に値すると考えられます。


次回は明治時代以降の日本について触れていきたいと思います。




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